『楽しく生きる!』第2実験室

自分の直感を頼りに、自分の感じたことを咀嚼するために文章にしています。 突っ走ったりやすんだりしながら、自分のペースを知るために日々過ごしています。 わたし自身、身近な世界のことで手一杯なのですが、 わたしのまわりにいる人たちが穏やかに過ごせることで、 そこからさざ波のように安心感が広がっていきますように。 

自分の考えを持つことは命を守ることである

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あなたはふらふらしていないか?

 多くの人はものすごくふらふらしている。たとえば、何か行動を決めなければならなくなったとき、どの方向に行くべきかわからないので、ほかの大多数の人が向かう方向に行く。それが、ふらふらしているということだ。

 つまり、自分なりの価値観、善悪などの道徳観をこれっぽっちももっていない。そのため、長く続いた伝統や因習が正しいはずだと安易に思ってしまう。なぜならば、今まで多くの人がそれに従ってきたからだというわけだ。

 そんなふうにずっとふらふらしていて、いつまでも自分の考えや意見をもたないでいると、気がついたときには銃を持って戦場に立ち、誰か他の若い人を殺している、あるいは知らない人から殺されるということになる。それがあの第二次世界大戦だった。

 冗談ではなく、いつまでも自分で考えないままでいると命にかかわるのである。

 

これは『自分の頭で考えたい人のための15分 哲学教室』
という本に書かれている序文 白取晴彦さんの言葉です。

人は日々小さなことから大きなことまで
たくさんの選択をしていますが
「自分はなぜその選択をしたんだろう?」
などと問うことはあまりないのではないのでしょうか。

自分は、どんな選択を好み
どんな選択を拒否しているのか
それらを知ることで自分の知らなかった一面を知り
考えることの楽しさに気づくかもしれません。
 

 

自分の意思があったとしても
それが集団になると霧が立ち込めたように
見えなくなってしまったりします。
霧の中で一人になるのは不安なので
かすかに見える前の人に無意識に
ついて行ってしまうかもしれません。

ですが、その前の人が正しい道を歩いてるとは限らないのです。
そんなときには、一度冷静になる必要があります。

そして、道を選ぶことは孤独を覚悟する必要があります。
その選んだ道は自分ひとりだけかもしれないのですから。

誰もいない寂しい気持ちと向き合いながら歩いていると
思わぬところで人に会うことがあります。
その人もまた
孤独のなか自分で選んだ道を歩いてきた人でもあります。
同じ道を歩いてはいないかもしれませんが
「それぞれの道を旅する仲間」
として尊重しあえるいい関係に
なることもあるでしょう。

 

「前の人が行ってるから」
「みんなが行くから」
自分で選ばないということは、責任がありません。
責任を取ることを嫌がる人にはそれは楽なのかもしれません。

また、集団になると
正義という剣で攻撃して相手に傷を負わせても
「正義なんだ!わたしはいいことをしたのだ!」
と正当化してしまうことがあります。


「一人に多数の人で攻撃する正義」とは一体何なのでしょうか。


一人一人は道徳心を持った健全な人かもしれません。
不安や不満に火がついてそれが集団になってしまうと、
みな我を忘れて怒りに燃えてしまうように思います。

それはまるで
「人間に怒りを向ける王蟲(おうむ)の群れ」
そのものではないでしょうか。

 

 

考えることをやめていませんか?

 哲学を知って自分で考える力をもつようになれば、自分の価値や倫理観は確立するだろうか。はっきり言えば、確立なんかできない。

 でもヒトラーみたいな人間がまた出てきたら、あいつはペテン師だぞと反対の声をあげることはできる。それで死ぬかもしれないが、戦場でほかの国の若者を殺して良心の痛みを抱きながら苦しんで生きるよりましかもしれない。

 

いま、「わが闘争」という
ヒトラーの自伝的要素と政治的世界観の本を読んでいるのですが、
あわせてまわりの状況なども少し調べてみると、
自分の知っていることの少なさに驚きます。

自分の信じる道が市民のためにはより良い道だと
信じて疑わないまっすぐな信念をもっていたこと。
それは一概に「ペテン師」であるとは言いきれません。


プライベートでユダヤ人と親交があったり
私用の運転手に雇ったり
特別な配慮をすることもあったようです。

ユダヤ人を憎くてやっていたのではなく
民族主義やプロガンダのために標的にした可能性があります。
(※プロガンダ = 宣伝)
第一次大戦後の困窮している状況から
なんとかして抜け出す必要があったことを鑑みると
一概に「絶対の悪」とも言いきれない部分もあります。

ヒトラーは悪」という裏側には、
一部の人にとっては救いの神であり
また別の人たちにとっては死神
…だったのかもしれません。


物事にはいろいろな要素があり、
少し見る角度を変えるだけで多面的にみることができます。
自分の中で正しさの基準を持つこと
過去の過ちを教訓にすること
それらを頭の片隅に
いつも意識していきたいものです。


ひとつの意見に固まりすぎてしまうときは少し立ち止まって
「それは本当か?」
と自分自身に疑問をなげかけてみませんか。

そして、すべての人のなかには「自分の信じる正義」があり
「自分の信じる悪」が存在しています。

 

それぞれのもつ「正義」と「悪」。
「それらとどのように付き合っていくのか」が課題なのかもしれません。

 

 

 

 

今日もあなたに心の安らぎと幸福感が訪れますように♪

 

 

 

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