『楽しく生きる!』第2実験室

自分の直感を頼りに、自分の感じたことを咀嚼するために文章にしています。 突っ走ったりやすんだりしながら、自分のペースを知るために日々過ごしています。 わたし自身、身近な世界のことで手一杯なのですが、 わたしのまわりにいる人たちが穏やかに過ごせることで、 そこからさざ波のように安心感が広がっていきますように。 

学ぶことの意味とは?安心とは??

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なぜ人は学ぶのだろう。

 

わたしには小学生の息子が2人いる。

昨日、小学5年の長男が

先生に注意をされたと言っていた。

その理由は
「自宅学習を1時間やっていないから」
というものだった。

 

長男が取り組んだもの見ると、

自主学習はやっつけ仕事のようで

先生が求めるものではなさそうだった。

 

 

 

先生の意図は何か。

決められた時間をやると

余った時間でさらにひと工夫するようになるのだろうか。

 

やる気が出なかったら、

ぼーとした時間がかなり含まれ意味がないのではないか。

 

学習とは集中するためのトレーニングだと定義するならば

長男はわたしに言われることもなく自主的に取り組んでいる。

そして、集中して短時間で終わるようにしているようだ。

 

「宿題をこなすこと、苦手を克服すること、やるべきことをやること」

それらに重きを置くと学習はいやなものになってしまう。

 

型にはめられて学ぶことは

先生との相性がとても影響すると思う。

その子の性質もおおいに関係していると思う。

それでも、学ぶこと自体をきらいにさせたくない。

 

 

 

先日、子どもたちがテーブルに向かい合って宿題をやっていた。

 

「あと〇ページだぁ!スピードモードに入ったぁ!」

1人が鼻歌うたいながらそんなことを言い始めると

「人類は滅亡の危機におかされる」

「おまえマスターできるのか?」

「おれも今スピードモード!!」

「くそ~!!負けた~~!!!」

「ここでスピードモードに入ればワンチャンあるぞ。

5秒なら待ってやるぞ」

「しゃべりながらやる勉強はたっのし~~♪」

 

キャッキャッ言いながら楽しそうにやっていた。

「ゲームバトルならぬ勉強バトル」笑

集中力は散漫になっていそうな気もするが。。。 

 

 

 

 

昨日の長男の自主学習は

「刑法」をネットで調べて書いていた。

どうやら興味があるらしい。

色鉛筆を使ってわかりやすくする工夫をしていた。

気づいたら1時間経っていたそう。

 

「最後に気づいたこと、思ったことを書いてみたら?」

と提案してみたら、けっこうなボリュームで書いていた。

 

 

自分が知りたいこと、興味があることだと、

楽しくなって、時間はあっという間に過ぎる。

 

苦手なことからは無意識に逃げたくなるが、

興味があることには

無意識に工夫が生まれる。

無意識に深く考える。

それは楽しいが根っこにあるから。

 

 

子どもたちに

「小学生もいろいろ大変だよね〜」

と声をかけると、

「そうなんだよ!大変なんだよ〜」

と言ってくる。

 

本人たちはあれこれ質問されることを嫌がる。

だから大雑把にしか共有していないが、ゆるく労う。

 

「分かってくれている」

 

大人からそんな雰囲気を感じると

子どもたちも気持ちが落ち着くのではと思うからだ。

 

安心感は大切だ。

 

わたしは子供の頃、

親に理解してもらうことを途中で諦めてしまった。

 

でもけっきょくは安心感を求めてさまよったり、

完全に閉ざしたりしてしまうのだから、

親が安心感を与えられるなら

それに越したことはないなと思う。

 

子どもは安心する場所が親だったり家だったり、先生だったり、おじいちゃん、おばあちゃんだったり、自分以外にある。

 

大人は安心する場所を自分の中に作れるようになれば最強だなと思う。

 

しんどくなったとき

自分の中の深い部分に降りてゆく。

ゆっくり呼吸をして

ピリピリと電気が流れていくのを感じる

それが指先まで流れていく。

そんなことを感じていると、

いつの間にか落ち着いている自分に気づく。

 

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次男は秩序感が強い。

習っていない問題が出ると

パニックになって癇癪を起こす。

 

学年があがっていくと

先生にはきちんと習っていないけれど、

教科書にはのっているから

なんとなく自力で覚えていく。

そんなことが起きる。

 

そういう感覚がどうしても次男には受け入れられないようだ。

 

昨日は「表紙」の「紙」が「し」と読むところまで辿り着けなくて、癇癪を起こしていた。

 

教科書から見つけられない。

国語辞典は学校に置いてきてしまっていた。

長男に「いい加減うるさすぎ」と言われて、大爆発。

教科書を1ページ破って、くしゃくしゃに。

今度はくしゃくしゃになってる破った教科書を見て、さらに泣く。

テープで貼ろうとして、うまく貼れなくて剥がす。

さらに破れて大騒ぎ。

 

こうなったら口を挟むと余計悪化する。

落ち着くまで放っておく。

 

気づいたら1時間ずっと、怒り泣きしていた。

ちょっと落ち着いてきても、

「時間がなくなっちゃった」と再び泣いていた。

 

昨日はすごく暑かった。

そして、学校のあと友達と遊んで気力体力を削っていた。

その帰り道では次男が転んで、

長男も巻き込まれて怪我をして帰ってきた。

長男に怒られて

感覚過敏の次男には刺激が多すぎた1日だったのかもしれない。

 

 

落ち着いてきてから、

癇癪を起こしているときの状況を説明した。

癇癪を起こしているときは

自分の状況も周りも見えなくなる。

時間のことや

長男の気持ちや

母のわたしの気持ち

取り組み方など。

 

次男は自分から人に懐いていくが、

人から構われるのが好きではない。

 

抱きしめられるのも嫌がる。

 

次男にとっての安心感は

親よりも眠るときの相棒のぬいぐるみなのだ。

 

眠るときも、「一緒には寝たいがくっつくのは嫌」だと言う。

 

小さい頃は夜7時くらいになると眠くなってしまい

「もう寝る」と言って

ぬいぐるみと一緒にさっさと寝てしまっていた。

 

 

安心感の感じ方も人それぞれ違うということを

子育てを通して恐ろしいほど実感している。

 

 

学びのかたちも

安心感を得る方法も

人によって全く違うのだから

枠におさめること自体に

無理があるように感じる。

 

 

社会に適応できないわたしだから

気がつくことがある。

 

 

賢さよりも、稼ぐことよりも

自分の居場所を作っていくこと

自分の機嫌をとる方法を知っている方が

生きていく上では必要ではなかろうか。

 

 

賢さがあっても

お金があっても

小さな幸せを感じる力がなかったら

一喜一憂する毎日に

疲れてしまわないだろうか。

心を壊してしまったら

毎日に意味なんてなくなるのだから。

 

 

追記:先生から自主学習で「刑法」を学習することはダメだと言われたそうだ。予習、復習に限るそうだ。それを「つまらん!」と思ってしまう母親のわたし。

今日もあなたに心の安らぎと幸福感が訪れますように♪

 

 

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